「待つ」という行為の普遍性 96年の劇評

「ゴドーを待ちながら(モルドバ版)を見て」

南日本新聞  1996.12.27

________________________________________

               

 モルドバ共和国からやってきたウジェーヌ・イヨネスコ劇場による公演「ゴドーを待ちながら」を見る機会を得た。サミュエル・ベケットによって書かれたこの芝居は、一九五三年に初演され、それまでの長きにわたったリアリズム演劇に大変な衝撃を与えた。

 エストラゴンとウラジミールという男が二人、田舎道で正体不明のゴドーという人物を待っている。ただそれだけの芝居だ。ベケットは言葉やプロットによるドラマツルギーを解体して「待つ」という行為を浮き立たせた。この芝居はいろいろな批評家たちによってさまざまな解釈がなされたが、ある刑務所で演じられた時には、囚人たちはだれ一人として席を立つ者はなかったという。「待つ」という行為に一番意味を見いだせる立場からすれば、この不条理演劇は全く理にかなった力を持ちえたのかもしれない。

 だれもが予測しえなかったあのソビェト運邦の崩壊後、掛け違えたボタンを正すようにして独立した小国も紛争から免れたわけでなく、その影響がこの芝居の演出には色濃く出ている。二人がヘリコプターのさく裂音におののくような独自の演出には、長い間大きな力によってゆがめられていた人々の精神の片りんが見える。

 この芝居は結局のところ、それが上演される時代と、それを見る者を取り巻く状況によって理解のされかたが多様であるわけである。とすればそれは、現在の日本を測る一つのスケールにもなる。

 私は神奈川で高校の教員をして二十年近くになる。その間若者たちの在りようは随分変化したが、特にここ数年、若者たちは大人社会とは永遠に交わることのない独自のレールを走り始めているような気がしてならない。考えてみると、それはコンピューターの進化に伴う通信メディアの急激な広まりと無縁ではないようだ。

 社会はここ数年でアナログの時代からデジタルの世界へと移行した。アメリカの大学生たちが広めたとも言えるインターネットによって、世界の距離は意味を失っているが同時に個人間の距離もこれまでとは異質なものになっている。

 携帯電話の呼び出し音は、街中はいうに及ばず満員電車の中までも席けんし、飲み屋.で飲んでいるサラリーマンのポケットにまで侵入する始末だ。高校生のほとんどがポケットベルを所有し、喫茶店で対座する恋人たちは目の前の相手と語すのではなぐ、携帯電語でそれぞれどこかにいる友人と語している。電磁波の網にかからない個人はもはや存在しないかのようである。

このデジタル社会からは「孤独」とか「待つ」などのいわばアナログな状態・動作は徐々に放逐され始めている。すべてがオンオフの二択.で決まるデジタル社会からそういう「あいまいさ」が排除されるのは当然といえぼ当然なのかもしれない。そういう社会ではゴドーはエストラゴンに携帯電語で呼び出され、その結果がウラジミールにポケベルで報告されるような具合だろう。通信メディァの発,達は「個人」と「個人」の間の時間的空間的なすき間を容赦なくそぎ落としてしまった。

 ベケットの影響を受けた劇作家、別役実は現代にすでに「個」はなく、現代人は「関係」の中にのみ生きていると言ったが、デジタル社会はその「関係」を一層強化しているようだ。この「関係」は、そこに一個の人間の内にうごめく悩みや迷いを差しはさむことを許さない。大変な速さで変化するこのデジタル社会を支えているのは若者たちであるが、そこでは当の若者たち自身もまたいや応なしにこの「関係」にコミットしていかざるをえないのである。

 それにしても気になるのは、そういう孤独感や迷いを知らない「まじめな」若者たちが多くいる一方で、そこからはみ出ていく若者の数も間違いなく増えているということだ。「関係」からはみ出し.た「個」の行方は寒風吹きすさぶ街角でしかない。独りで悩むことなど経験のない「個」にとっては、群れるしか道はない。自分たちの「関係」の中に埋もれることで自分を確認することのほかに彼らを救うものはない。だがそこから生じるのはすさんだ仲間意識でしかなく、その結果街は物騒な気配に支配され、地域社会は「はぐくみ」や「慈しみ」を放棄することになる。

 この陰と陽の「関係」で構成される無機質な杜会が、未知の国モルドバからやってきたエストラゴンとウラジミールの目にはどう映っただろうか。


[PR]
by morioka007 | 2014-06-04 10:15


<< 二人芝居始動 創作集団マブリを立ち上げました。 >>