二人芝居始動

三人のベテラン役者を得て、中年男優二人芝居三部作が十一月中旬公演に向けて始動しました。
早速新宿にて第一回目の読み合わせ。さすがに舞台経験の多い三人だけあって台詞の読み込みが深く、これから演出することが楽しみです。

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# by morioka007 | 2014-06-16 21:21 | 演劇

「待つ」という行為の普遍性 96年の劇評

「ゴドーを待ちながら(モルドバ版)を見て」

南日本新聞  1996.12.27

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 モルドバ共和国からやってきたウジェーヌ・イヨネスコ劇場による公演「ゴドーを待ちながら」を見る機会を得た。サミュエル・ベケットによって書かれたこの芝居は、一九五三年に初演され、それまでの長きにわたったリアリズム演劇に大変な衝撃を与えた。

 エストラゴンとウラジミールという男が二人、田舎道で正体不明のゴドーという人物を待っている。ただそれだけの芝居だ。ベケットは言葉やプロットによるドラマツルギーを解体して「待つ」という行為を浮き立たせた。この芝居はいろいろな批評家たちによってさまざまな解釈がなされたが、ある刑務所で演じられた時には、囚人たちはだれ一人として席を立つ者はなかったという。「待つ」という行為に一番意味を見いだせる立場からすれば、この不条理演劇は全く理にかなった力を持ちえたのかもしれない。

 だれもが予測しえなかったあのソビェト運邦の崩壊後、掛け違えたボタンを正すようにして独立した小国も紛争から免れたわけでなく、その影響がこの芝居の演出には色濃く出ている。二人がヘリコプターのさく裂音におののくような独自の演出には、長い間大きな力によってゆがめられていた人々の精神の片りんが見える。

 この芝居は結局のところ、それが上演される時代と、それを見る者を取り巻く状況によって理解のされかたが多様であるわけである。とすればそれは、現在の日本を測る一つのスケールにもなる。

 私は神奈川で高校の教員をして二十年近くになる。その間若者たちの在りようは随分変化したが、特にここ数年、若者たちは大人社会とは永遠に交わることのない独自のレールを走り始めているような気がしてならない。考えてみると、それはコンピューターの進化に伴う通信メディアの急激な広まりと無縁ではないようだ。

 社会はここ数年でアナログの時代からデジタルの世界へと移行した。アメリカの大学生たちが広めたとも言えるインターネットによって、世界の距離は意味を失っているが同時に個人間の距離もこれまでとは異質なものになっている。

 携帯電話の呼び出し音は、街中はいうに及ばず満員電車の中までも席けんし、飲み屋.で飲んでいるサラリーマンのポケットにまで侵入する始末だ。高校生のほとんどがポケットベルを所有し、喫茶店で対座する恋人たちは目の前の相手と語すのではなぐ、携帯電語でそれぞれどこかにいる友人と語している。電磁波の網にかからない個人はもはや存在しないかのようである。

このデジタル社会からは「孤独」とか「待つ」などのいわばアナログな状態・動作は徐々に放逐され始めている。すべてがオンオフの二択.で決まるデジタル社会からそういう「あいまいさ」が排除されるのは当然といえぼ当然なのかもしれない。そういう社会ではゴドーはエストラゴンに携帯電語で呼び出され、その結果がウラジミールにポケベルで報告されるような具合だろう。通信メディァの発,達は「個人」と「個人」の間の時間的空間的なすき間を容赦なくそぎ落としてしまった。

 ベケットの影響を受けた劇作家、別役実は現代にすでに「個」はなく、現代人は「関係」の中にのみ生きていると言ったが、デジタル社会はその「関係」を一層強化しているようだ。この「関係」は、そこに一個の人間の内にうごめく悩みや迷いを差しはさむことを許さない。大変な速さで変化するこのデジタル社会を支えているのは若者たちであるが、そこでは当の若者たち自身もまたいや応なしにこの「関係」にコミットしていかざるをえないのである。

 それにしても気になるのは、そういう孤独感や迷いを知らない「まじめな」若者たちが多くいる一方で、そこからはみ出ていく若者の数も間違いなく増えているということだ。「関係」からはみ出し.た「個」の行方は寒風吹きすさぶ街角でしかない。独りで悩むことなど経験のない「個」にとっては、群れるしか道はない。自分たちの「関係」の中に埋もれることで自分を確認することのほかに彼らを救うものはない。だがそこから生じるのはすさんだ仲間意識でしかなく、その結果街は物騒な気配に支配され、地域社会は「はぐくみ」や「慈しみ」を放棄することになる。

 この陰と陽の「関係」で構成される無機質な杜会が、未知の国モルドバからやってきたエストラゴンとウラジミールの目にはどう映っただろうか。


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# by morioka007 | 2014-06-04 10:15

創作集団マブリを立ち上げました。

盛岡茂美の創作世界。

奄美の「南海日日新聞」に4本目の新聞小説「クラウディ ライフ」の連載を終えたばかりです。

演劇の創作集団マブリを立ち上げました。ごく普通の人たちの、特に中高年の人たちの中に潜む演劇性を抉り出していきたいと思います。
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# by morioka007 | 2014-05-31 23:00 | 演劇

早稲田界隈

 知り合いの芝居を観るため久しぶりに早稲田界隈を歩きました。芝居は楽塾の「女たちの平和」。元気な女性たちに圧倒されました。そろそろこの国はすべて女性に任せた方がいいでしょう。
 高田馬場はもう何十年も前に毎日通った駅です。すべて変わったけれどBIG BOXと早稲田行きの当時15円だった学バスの乗り場だけは変わりませんね。そして芳林堂の入っているビルのあのエスカレーター。もう四十年以上も動き続けているのですね。高田馬場から早稲田まで歩きました。その道筋もすっかり様変わり。軒を並べていた八百屋や古本屋もほとんど姿がなく、早稲田松竹をのぞいては昔の景色は全く残っていませんでした。卒業した文学部の校舎は当時国連ビルと呼ばれ、独り屹立していましたが今ではすっかりビルの谷間に埋もれていました。のんびりとした風情のあった穴八幡も同様です。その昔、ヘルメットをかぶりタオルで顔を覆った○×派の大集団が、機動隊に囲まれながらスクラムを組んで行進してきた早稲田通りも忙しく車が往来するのみ。青春の日々を送った場所に立って深い感慨に耽ることなど到底できませんでした。

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# by morioka007 | 2014-05-03 11:45 | 日常

「現実」よ、あんたはそんなに偉いのかい。

  十数年前に小泉内閣が登場してから、この国の姿は激変しました。個人の幸福よりも国家の利益を優先しようとする政治家たちは、やれ行政改革だ、規制緩和だなどと耳障りのいい言葉を国民の耳元に並べ立ててきました。そしてその連中の決まり文句はこうです。「現実を見ろ」。
  しかし果たして「現実」が人間のすべてでしょうか。今を生きる自分にとって、「二十年前の現実」と「昨夜の夢」の意味の違いがどれほどのものか、我々は厳密に説明できるでしょうか。彼らの言う「現実」が肩を怒らして跋扈すればするほど、その「現実」は検証されなければなりません。その検証の手段として最も効果的なものが「非現実」です。
  「なぜ傘を差しているのだ」という問いに「雨が降っていないからだ」と答える別役流のパラドキシカルな非現実観は、現実を鵜呑みにしている我々に、それを吐き出させる力があります。「非現実」を突き付けることによって、絶対的地位の上にあぐらをかいている「現実」にゆさぶりをかけなければなりません。文学や芸術の、それが使命です。
  と偉そうな事を言ってはみても、平凡な日常に埋没して生きて来たボクとしてはやはり日常というものから逃れる事はできません。ボクが書くのは、社会の片隅に生きる凡庸な男女の姿です。別に意識するわけではありませんが、どうしてもそれはユーモラスな人間像になってしまいます。一所懸命と滑稽は紙一重なのでしょう。ただ、笑って済ますのではなく、いわば「日常の波にのまれた魂が非日常に生まれ変わる」。ボクの創作姿勢の根本にあるのはそういうものです。先月、一年間毎日連載したユーモア小説「クラウディライフ」が完結しました。これは「曇りがちな人生」を送っている、年齢も性別も違う四人の男女の話です。普通の人が送るささやかな生活の中にこそ生きる意味はあると思っています。
  ありふれてある生身の人間が言葉と肉体で日常と非日常を往来する。今回の芝居ではそんな舞台を作って「現実」を検証していきたい、そう考えています。
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# by morioka007 | 2014-04-29 16:26 | 演劇